ホンとのところ

日々のあれこれ、本の話題など

日々(糖尿病の名称変更)

糖尿病の名称をやめる、という記事を流し見して

「私は糖尿病の名称に問題があると気づかなかったけど、当事者の声は大事」

と思ったが、

他の差別の問題でも私は同じように思えているだろうか?

 

たとえば、

トランス主義者の「トイレに性自認で入るのを拒否するのは差別主義者だ」

という極端な主張については抵抗があるのだが、

彼らは当事者でないから「声」が大事と思えないのでは?

もしもあの激しい主張が当事者の「声」であったなら、じゃあ賛同できるのか?

それでも賛同できないな、となったなら

やはり主張に問題を感じているということになるわけで。

 

あるいは、糖尿病については名称変更くらいいいじゃない、という

「脅かされなさ」があるから大丈夫なのではないか?

 

トイレに性自認で入っていい、となったときに

こどもの安全は守られるのか?現状より危険になるのでは?という脅威を感じている。

 

 

 

日々(スーさんの本)

『ナナメの夕暮れ』を一気読みしたわけだが、

ずっと前から別のエッセイ集を読んでいた。

 

ジェーン・スー『きれいになりたい気がしてきた』

 

私はスーさんと堀井美香さんのポッドキャスト番組「オーバー・ザ・サン」のファンで。

二人の話す内容に共感や「へー」の嵐なのだが。

クスクスあるいはゲラゲラ笑いながら聴いていてとても楽しいのだが。

 

本で読むと若林君のほうが「分かるし落ち着く」のだ。

スーさんのほうが「共感はできないけど分からなくもない」割合が高い。

結果、スーさんの本はちびちび読んでいて、若林君の本は一気読みとなった。

 

まあ、これは男性性女性性の問題ではなく、

単に気質が近い人のほうが性別を超えて共感できる、ということなんだろう。

自分には不器用な人を好む傾向があるが

スーさんに不器用さをあまり感じないところがネックなのか?

 

若林正恭『ナナメの夕暮れ』(文藝春秋、2018)

オードリー若林君のエッセイ『ナナメの夕暮れ』を読んだ。

二〇一八年刊行なんで、今更かよ!というところだが

最近「オードリーのオールナイトニッポン」をよく聴いている影響。

 

この本は二〇一五年から二〇一八年まで「ダ・ヴィンチ」に連載されていたものに

書き下ろしが〈第二部〉として相当量加えられている。

 

キューバ紀行記の前に出された本だと勘違いしていたが、

こちらのほうが出版はあとだった。

エッセイのなかにキューバ旅行についての文章も載っている。

 

若林正恭氏はほぼ私と同年代で、

よって南海キャンディーズ山里亮太氏に抱く気持ちと似たものを感じてしまう。

 

つまり、ちょっと近すぎてこっぱずかしい。

私は伊集院光(敬称略)が大好きなんだけど、

十歳くらい上だと脱臭されるのか、

尊敬と親愛の情と面白すぎる!という気持ちでほぼ100%になる。

若林君も山ちゃんも同年代のせいで

30%くらいの割合の生々しさを感じるんだよね。

二人がとても「生々しい」生き様を芸人として見せているからだろうか。

(若林君には自覚はないかもしれない。)

 

これでも昔よりだいぶ生々しさを感じる度合いは減った。

「若さ/青さ」とも置き換えられるんだろうけど。

山ちゃんの深夜ラジオ(不毛な議論)も

最初は恥ずかしすぎて聴けなかったもんね。

 

ここまで書いて気がついたけど、

そこそこ私自身も「自尊心の塊」なんだろう(お二人と同じで)。

 

若林君のエッセイはすごく共感するものと、

「創る人」らしい他者を寄せ付けない感じのものと、

がんばれ!と言いたくなるようなものとが混在していて

自分の脳内もかき回される感じが面白かった。

正直さと正直じゃなさとの混ざり具合も独特で面白い。

 

でもそろそろ、本当に身体にガタが来る年頃なので、

(そういえば一回倒れたこともあるし)

身体に気をつけて長く活躍してほしい。

 

以上とりとめのない感想でした。