日々(糖尿病の名称変更)
糖尿病の名称をやめる、という記事を流し見して
「私は糖尿病の名称に問題があると気づかなかったけど、当事者の声は大事」
と思ったが、
他の差別の問題でも私は同じように思えているだろうか?
たとえば、
トランス主義者の「トイレに性自認で入るのを拒否するのは差別主義者だ」
という極端な主張については抵抗があるのだが、
彼らは当事者でないから「声」が大事と思えないのでは?
もしもあの激しい主張が当事者の「声」であったなら、じゃあ賛同できるのか?
それでも賛同できないな、となったなら
やはり主張に問題を感じているということになるわけで。
あるいは、糖尿病については名称変更くらいいいじゃない、という
「脅かされなさ」があるから大丈夫なのではないか?
トイレに性自認で入っていい、となったときに
こどもの安全は守られるのか?現状より危険になるのでは?という脅威を感じている。